【あらすじ】
敗戦後の東京、食べるものに事欠き貧しい生活をおくっていた主人公、笑子は進駐軍経営のニグロ専用のキャバレーで働いていた。そこで親切で紳士的な黒人のトム伍長と出会う。二人の仲は急速に深まり、周囲の反対を押し切って結婚、やがて初児のメアリイが産まれる。
 やがて軍の命令でトムは本国に帰国するが、なかなかアメリカにおいでという連絡は来ない。メアリイは肌が黒いため、黒ん坊として周囲からいじめられ、笑子の母や妹までもが黒ん坊が自分たちと血がつながっていることを恥だと言ってなじる。この状況に耐えられなくなり、娘のためを思って、日本よりずっと良い生活が待っていることを信じて笑子も渡米する。
 トムは日本で軍人として生活している間は給料も良く裕福だった。しかし、アメリカに帰ってみるとハーレムの一部屋で生活は始まり、ろくな仕事もなく、笑子はレストランなどで働くこととなる。次々に産まれてくる子供の世話とやりくりに奮闘する笑子であったが、ことあるごとに「ニグロの妻」という立場にあるという現実に打ちのめされる。トムも日本にいる間は自信と愛情に溢れた良き夫であったが、アメリカに帰ってみると疲れきった黒人の男になっていた。なぜニグロは差別されるのであろう…第三者的に悩み苦しんでいた笑子であったが、やがて自分もニグロであるということを悟る。そして最後に自分自身に向かって「私も、ニグロだ!」と叫び、逞しく生きていく決意をする。

【感想】
 主人公はニグロと結婚し、ニグロの妻だということで日本でもニューヨークでも厳しい生活を強いられる。トムは給料の良い軍人ということで日本人には好意的にとらえられているように思えたが、アメリカだけでなく日本でも黒ん坊は差別の対象になったということに驚きを隠せなかった。これは黒人=劣等という認識の輸入、また一民族しか存在しない島国日本で他民族は排他すべきという閉鎖的な考えが根底にあるのではないだろうか。けれども戦争花嫁にふりかかる社会からの圧力と人種差別を理解し、それを受け入れて生きていこうとする笑子の姿勢、その強さと逞しさに感動を覚えた。
気になったのはトムが自分の娘メアリイを白雪姫と呼ぶ点だ。メアリイは日本人と黒人のハーフなので、多少は黒人性は薄れているかもしれないが、やはり黒人の血が混じっていて、周囲からは黒ん坊と揶揄される子供である。なぜトムは白雪姫と呼んだのだろうか、いやそう呼びたかったのかもしれない。黒人として生きるということの困難が少しでも自分の娘に降りかからないように、という親心だろうか。アメリカで黒人として産まれ、生きていくことは計り知れないほどの悲しみと苦しみを背負うことだと感じた。
人間は誰しもが他の者よりも上でありたいという気持ちを持っている。他者と比較し、自分のほうが優れていると確認しなければ落ち着かず、自分の自我を形成させているように思う。差別意識はそこから生じるものであると考えたら、決して無くなることのないものではないかという考えに行き着き、気分が暗くなった。タイトルの『非色』は「色にあらず」で、肌の色は関係ないという意味でついたものだと思う。色を超えて生きていこうとする主人公の姿は著者の願いが込められているように思われる。
【Outline】
 人魚遊びを始めたPearlはその衣装の仕上げとして、アマモで胸に緑色のAという字をつけた。Hesterの声が聞こえたので、Pearlは小躍りしながら母親の前に姿を見せ、胸の飾りを指した。
  Hesterはそれを見て、「何故お母さんがこの字をつけているのか知っているの?」と聞いた。すると、Pearlは「牧師様が胸に手を当てているのと同じ理由でつけているの」と答える。それを聞いたHesterは青ざめて「どうしてあの字がお母さん以外の人の心と関係があるの?」と言う。その様子にPearlは真剣な表情で、緋文字の意味・母親は何故それをつけているのか・牧師様は何故胸に手を置いているのか、問う。
  Pearlはいつもと違う顔つきで、Hesterの目を覗き込んだ。それを見たHesterは今まで四月のそよ風のような気性とわが子を評価してきたが、彼女は早熟で利発な子だから、もう自分の悲しみを打ち明けてもいいほどの年齢になったのではないかと思う。同時にPearlの性格と自分の罪の関係に恐ろしさも感じる。

【本文】
p171.L4 She inherited her mother’s gift for devising drapery and costume.訳)彼女は母親から織物や衣装を考案する才能を受け継いでいた。
     →母親の胸のAという字も忠実に再現しようとした。
L8 A letter, -the letter A,-but freshly green, instead of scarlet!訳)それはある文字、―例のAの文字だったが、緋色ではなく、鮮やかな緑色であった。
     →Hesterの胸の緋文字とPearlの胸の緑の文字の対照
L11 device 紋章=緋文字A
; even as if the only one thing ~to make out its hidden import.訳)その隠された意味を明らかにすることがだけが、この世に生を受けた目的であるかのように 
     →Pearlは生命を吹き込まれた緋文字・罪の象徴としての存在
L34 “It is for the same reason that the minister keeps his hand over his heart!” 訳)牧師様が胸に手をあてているのと同じ理由でつけているの

p172 L3 on second thoughts, turning pale 訳)ふと思いなおして青ざめた。
L7 she was wont to speak. <古語>いつも・・・する
     “Ask yonder old man whom thou hast been talking with! 訳)さっきまで話していたあのおじいさん(チリングワース)に聞くといいわ!
     →やはり真実を全て知っているのではないかと思う。
L21 ; which spends return in airy sport, and(=but)has its gusts of inexplicable passion, / and is petulant in its best of moods,/ and chills (you) oftener(〜するほうが多い) than(〜するより) caress you, when you take it(=breeze) to your bosom;
L27 then begone about its other idle business , leaving(分詞構文・付帯状況) a dreamy pleasure at heart.
訳)人の心に夢のような喜びを残しては、また他の用事に取り掛かる

【HesterのPearlの気性に対する評価の文章】
~p173.L1 今までは「四月のそよ風」
・軽やかな戯れにふけっているかと思うと、一陣の旋風を起こす
・上機嫌のさなか気難しくなる
・抱擁してやろうとするとすげなくする
他の人の目には愛嬌の無い子と映っているのだろう

↓ Pearlの真剣な態度を見て

     「母親の悲しみを理解できる年頃になったのだろうか」
     ・ものに動じない勇気と堂々たる節理
     ・他人の支配を許さない意志
     ・自尊心に変化するかもしれない傲慢さ
     ・虚偽のかげりがあることが判明する、全てに対するさげすみの出現を感じ取る。
Pearlのこうした性格と母親の罪の結びつきが恐ろしい結果を生む?
→ミルトンのサタンが神の前にひざを屈することを拒否した描写を連想させる。
1。はじめに
   ボーマルシェ作の演劇作品「フィガロの結婚」は18世紀にモーツァルトが美しい音楽をつけて上演が始まってから、現在では世界で最も数多く上演されるオペラであり、オペラ史上最高と称される傑作です。私は高校二年のとき、演劇鑑賞の授業の時間にこの作品を鑑賞しました。しかし、イタリア語での上演だったため話の筋がよく理解できず、残念な思いをしたことを覚えています。今回のレポートを書くにあたり、「フィガロの結婚」に再度触れることができたのはとてもよい機会だったと思います。

2.あらすじと感想
   ごく簡単に言ってしまえば、伯爵邸の召使いのフィガロが伯爵夫人の侍女スザンナと結婚をする話ですが、初夜権(宮廷の主人は、その召使の結婚の際花婿に代わって初夜を共に出来るという権利)をひとたび放棄したもののスザンナに気がある伯爵はその復活を企んでいる。伯爵夫人は、夫の冷めゆく愛を嘆いています。そこで夫人、フィガロ、スザンナが結託して伯爵の鼻を明かそうと企みます。恋する思春期の小姓ケルビーノをスザンナの衣裳で女装させて伯爵をおびき出そうとしますが失敗。一方、フィガロに横恋慕の女中頭マルチェリーナはフィガロに借金返済が無理なら自分と結婚するよう強要し裁判となりますが、フィガロがマルチェリーナの子であることが発覚します。一転して喜びの再会。次に夫人とスザンナはお互い衣裳を換えて、伯爵の浮気現場をおさえようと画策します。事情を知らないフィガロはこれに一時混乱しますが直ぐに理解、しかし伯爵はまんまと引っかかり、夫人に平謝りして4つのカップル(フィガロとスザンナ・バルトロとマルチェリーナ、ケルビーノとバルバリーナ、そして伯爵と伯爵夫人の愛も復活)が誕生し、全員喜びの大団円となる。長かった一日がハッピーエンドで終わります。
「喜歌劇」ということで、悲壮な雰囲気や乱暴なシーンはなく、明るくコミカルな誰もが楽しんで鑑賞できる劇だと思います。そしてその中で登場人物がみな人情味にあふれ、素敵な人間性を持ち、さまざまな愛の形、そしてその素晴らしさが表現されています。観客や読者を楽しく、幸せな気分にさせる、気持ちのよい作品です。

3.フィガロの結婚にみるゴロワ精神
「フィガロの結婚」の作者であるボーマルシェ(1732−1799)は、天才的劇作家と言われています。彼の人生を見てみると「フィガロの結婚」が生まれたのが当然のことのように思えます。彼は、パリの時計商の家に生まれ、王室の時計師として宮廷に出入りを許されていてそれを機に社交界に出入りするようになりました。そして、貴族の未亡人と結婚して男爵となり、投機により巨万の富を築いた後、音楽家、劇作家、宮廷人、実業家、金融家、出版、土木業などさまざまな職業の肩書きを持つに至りました。彼の経験が「フィガロの結婚」のストーリーに反映されていて、フィガロ=ボーマルシェ自身であるように思います。
esprit courtoisが宮廷作法や騎士道や礼儀などを重んじる厳格な精神である一方で、esprit gauloisは下品でみだらで好色、町人文化に根付いた人間くさい卑俗な精神です。「フィガロの結婚」の中で初夜権を復活させようと企む伯爵を代表とした貴族の堕落や不正の糾弾、フィガロら町人たちが元気一杯に積極的な行動をとっている点に封建貴族社会が平民たちに屈する近代革命劇として、また浮気や横恋慕など大衆風俗的な話題がテーマとなっている点に、はっきりとゴロワ精神を感じることができます。またフィガロら男性陣に負けず劣らず、スザンナを始めとする女性陣が溌剌としている点がこの作品の特徴でもあります。作中では医師バルトロに代表されるように男が女を物として、または道具としか見ていない感が否めません。男の横暴・身勝手さ、権力欲・支配欲、女性への差別意識といったものは、最終幕で伯爵夫人の大きな愛を前に屈します。ここにフェミニズムからの男性中心社会への攻撃そして復讐が描かれており、現代人の感覚からしても爽快感を覚えます。
「フィガロの結婚」のように貴族の腐敗ぶりを才知ある庶民がやり込める風刺劇は当時上演許可の取得が危ぶまれたそうです。しかし本作は1786年にウィーンにて初演され、プラハでは爆発的な大ヒットをきしました。このことは1789年のフランス革命を前にして、町人階級の勢力が高まってきた、そしてそのゴロワ精神がフランスのみならず周辺各国に浸透していったということをあらわしていると思います。しかし、作中で悪役として登場する貴族代表の伯爵はフィガロら町人たちに屈しますが、最終的には愛を手にするという点では貴族社会を下克上的にやっつけようとする勇ましさよりも、ちょっと懲らしめてやる程度の茶目っ気を感じます。ここにも厳格でないゴロワ精神の生ぬるさ・緩さがあり、同時に町民たちの流動的で未知のパワーを感じました。
私がアメリカにおける人種差別に興味を持つようになったのは、ある映画を見たことがきっかけだった。2003年に公開された”8 mile”は黒人にも熱狂的に支持される全世界的に有名な白人のスターラッパーであるエミネム主演の自伝的映画である。”8 Mile”とはデトロイトにある「8 mile road」というストリート名に由来するという。8 mileから南側に位置するデトロイトは大半を黒人が占める街で、北側に位置するウォレンは住民の大半を白人が占める街、この2つの街の境界線である8 mileは同時に人種を分断するlineだという。アメリカの人種差別というと、「黒人」しか思い浮かばなかったが、hip hopの世界では逆の差別が存在している。黒人優位の差別社会のhip hopにおいて白人ながらも勝ち上がっていったラッパーエミネム。私はこの逆差別が存在するhip hopの世界に興味を引かれ、同時にアメリカの音楽的文化にも関心を持った。現在、アメリカのmusic sceneはhip hop系とR&B系が二大主流で、どちらも黒人が生み出した音楽であると言われている。多民族が混在し、多種の文化を持つアメリカにおいて黒人が起源の音楽はどういった意味をなしているかを見ていきたい。

b)hip hop cultureとは
まずhip hopとはどういったものなのだろう。起源は人々が「アメリカ最悪のスラム」「絶望の街」「見捨てられた所」と呼ぶニューヨークのサウス・ブロンクス地区のスラム街であったと言われている。これは人種差別の中で、排他されかかったスラム街の黒人達が、「声・音・身体・リズム・色」といったものを武器に、黒人差別の長年の苦しみと怒り、そこから生じる生活水準の格差、教育水準、犯罪、社会政策のあり方といったアメリカ社会の没落をhip hopというものの中で表現した黒人の一つのcultureである。黒人に生まれつき備わっているエネルギーとリズムがアメリカ社会の矛盾と融合して生まれたものであるとも言われている。Hip hop cultureはビートに乗って矢継ぎ早に言葉を連射するrap music、レコード盤をゴシゴシ擦るDJ、地下鉄やビルに描かれる壁画を初めとするアート、アクロバティックな技で構成されるブレイクダンスといった様々なジャンルから成り立っている。このcultureは「反抗の芸術」とも呼ばれることがある。

c)白人ラッパー:エミネム
hip hopの音楽であるRapは、起伏のないメロディーとビートの利いたリズムに乗って、日常生活の不平不満から社会風刺までを早口でしゃべるものである。エミネムは幼少時代に友達もできず、貧困でトラブルの絶えない生活を送った。「唯一の安らぎがrapだった」と語るエミネムが繰り出す歌詞には幼少の頃からの悲惨な環境とリアルな経験が刷り込まれている。過激でリアルな歌詞は類まれなる世界観を生んだ。エミネムは得意のユーモアを武器に一気にmusic sceneを駆け上がったが、大統領や有名人に平気で侮辱的な言葉を投げかけ、犯罪や暴力を煽るかの様なその言葉にリスナーは「黒人にもいないクレイジーなラッパーが登場した」と、賞賛と罵声を一気に浴びせた。エミネムと同じように悲惨な幼少や辛い経験を送ったものたちはもちろん、社会に不平不満を持つものたち多くが彼の暴力的な歌詞に共感し、人種を超えて若者たちの強烈な支持をつかむことに成功したのだ。いまやhip hop界の頂点を越えたエミネムは常に過激な話題とともに現代アメリカのカリスマと言われている。現在30代以下の黒人は“hip hop世代”と呼ばれており、あらゆる面に於いて、これからのアメリカ社会に大きな影響を及ぼしていくことは間違いない。

d)R&Bとは
もうひとつの主流であるR&Bという言葉が一般的に使われだしたのは、1949年にアメリカのビルボード誌というヒットチャート誌が、それまで『レイスミュージックチャート』としていた黒人ポップチャートを『リズム&ブルースチャート』と改名した時からであり、R&Bとは『黒人ポップス』ということになる。日本で言うJ-POPのアメリカ黒人版をR&Bと総称することが可能なのだ。R&Bとは’50年代に黒人が、アメリカの南部からの移動する間あちこちのクラブで作り上げてきた独自の音楽で、黒人が生来もっているリズム感と暗い生活が生み出した魂の音楽である。もともとR&Bが発展した最も大きな理由は「辛い現状を忘れさせてくれる」というものであった。このR&Bの特徴、独特の歌詞やリズムから生まれ出る普遍的な感覚は多くの人が共感している。現在のアメリカの音楽チャートを賑わせているジャネットジャクソンやTLC、メアリーJブライジなどはR&B系のアーティストだ。日本でも韓国でも、R&Bのテイストが取り入れられ、世界中で現代のポップスの基盤となっている。

d)
現在の音楽の主流であるHip hop やR&Bは共に黒人生まれのもので、共通する根底として、決して裕福とはいえない環境のなかで、自分の身の回りにあるものでいかにクリエイティブな物を生み出すかという精神がある。それは世界中の若者たちを熱狂させ、影響を与える普遍的な精神として存在している。黒人音楽の良さは自分に素直で個性を大切にし、それを誇りに思い、産まれた環境を大切にまたそれも誇りに思うという気持ちにあると思う。20世紀初頭から20年代にかけて黒人の文学的・芸術的開花としてHarlem Renaissanceがあった。黒人の長年にわたる苦悩を表現しながら、それでも基本的に明るく陽気な黒人たちの音楽を、何不自由なく育ったはずの白人中流層のティーンエイジャーまでが、自分たちとは対局にある黒人文化をcoolと感じ、夢中になっている。最先端の流行を生み出し、music sceneや時代をリードする多くのhip hopperたちが多く存在している。アメリカ生まれの黒人音楽はさまざまな人種が混在するアメリカだけに留まらず、全世界に広がりを見せ、特に有色の人種からも熱い支持を受けている。アメリカ発の音楽がそれぞれの地域で、若者たちがさまざまに変化させ、地域独特の良さを醸し出している。黒人音楽がさまざまな人種のいるアメリカで認められ、世界中の若者に受け入れられているという現実。誰もがhip hopするこの流行をSlam Renaissanceと呼んでも過言ではないのではないだろうか。

<参考>

『ダークストーリーオブ・エミネム』(ニック・ヘイステッド), 小学館、2003

『標準ポピュラー音楽理論』(林知行)SHINKO MUSIC PUB.CO,LTD、1997

ブラックミュージック
http://www.nybct.com/v01-hiphop.html
Thirty years passed from the first MacDonald have located in Ginza, Tokyo in 1971. MacDonald group in Japan sold over twelve hundred million hamburgers last year. This fact tells us one person ate about ten hamburgers in a year. People of today are very busy and don’t have enough time to eat foods. So fast-convenient-cheep foods like hamburgers are expedient and necessity. Nowadays young people, of course business man, moreover elderly people eat fast foods. We take kindly to eat hamburgers. But now this eating habit is a problem under argument because of several reasons.
One is the lack of taste. We can always eat the same taste of hamburgers. This is one reason of the popularity. But it might often be salty and strong. Fast foods prevent us, especially children, developing the taste. Their parents have brought up with such fast foods and might have been lack of taste, so they are unnoticed this danger.
Second, there is a strong presumption that we lose season. One of how to feel seasons is eating vegetables and fruits which have seasons. We eat chilly foods in summer and eat hot foods in winter. But hamburger cannot tell us season because it is always the same taste.
Third, if we eat only fast foods, we tend to gain high calories, carbohydrate and fat. Mostly we eat a set of hamburger of potatoes and a drink. The nutrition is biased; we might easily get a trouble of health and get sick like overweight, high blood pressure, thrombosis and so on. In fact there is the case that someone accused MacDonald of offering high calorie foods.
Forth, more and more common fast foods become, traditional eating style of region faded out. Tenant farmers of region are in trouble. The crops are reduced. It is also serious matter for country.
On the other hand fast foods overflow, slow foods came into existence. The slow foods campaign has three mottos: having traditional foods leisurely with family and friends, looking the goodness of traditional foods over again, saving the tenant farmers. The beginning of the slow foods campaign was Italy. When the first MacDonald entered into Italy, Italian opposed to it about 15 years ago. In Japan such a campaign began several years ago and now pick up. Thought it is still our custom to have fast foods, we have to look the eating habit back again. It should be good for us to have foods slowly with my family.

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WritingmのCause and Effectの課題で書いたものです。
「食生活を見直そう」という題なのに思いっきりマック批判です(先生はアメリカ出身だったに・笑)
評価はB+だったかな…

誤字脱字修正してません!
『チャイナタウンの女武者』は著者やその母親たちの自伝的物語を通して中国人女性がアメリカで直面する苦悩や困難が描かれており、殺伐とした印象を受けた。また、いかにも中国的な幻想の世界観は、母親から聞いた「中国」を著者なりに表現したものであるが、我々「外国人」が「中国人らしさ」として描くイメージとぴったりで、マキシンは中国人の血が流れているけれども、やはりアメリカ人(外国人)なのだと感じた。
この本の中でキーワードとして出てくる「沈黙」を見て思い出したのが、中国の3大宗教のうちのひとつの儒教が沈黙の宗教と呼ばれている、ということだ。儒教は古い家族制度を支える封建的思想であり、マキシンの母親の英蘭の強固なイメージは儒教的だと思う。その母親の持つ儒教観、沈黙の思想は幼い頃からマキシンの潜在意識に刷り込まれていったのではないかと想像する。しかし、母親は花木蘭の伝説などの話では強く生きることの重要性を教え、結果的にマキシンが中国系アメリカ人女性であるからこそ女武者になりうるという思想を持たせることにも繋がっている。そしてマキシンは伝説の花木蘭に関して“この女武者とわたしがまるっきり似ていないというわけではない”(p74,l1)と自分と花木蘭に類似点を見出そうとしているのだ。女武者花木蘭が復讐を意味する「仇」や「報」を背中に彫りつけたように、マキシンは「シナジン」「黄色ドジン」などといった白人鬼が中国系アメリカ人へ与えた言葉のレッテルを体に刻み込みながら、中国人の特徴と考えられる「沈黙」を打ち破り、自伝を通して一中国系アメリカ人女性を「語る」。マキシンにとって「語る」ことが最大の主張であり、白人鬼たちへの抵抗であり、中国人女性の「解放」だと考えているならば、この本は、中国系アメリカ人女性マキシンの英雄伝であるのかもしれない。彼女は「語る」という手段によってチャイナタウンで女武者となりうるのだ。題名に関していえば、原作の『The Woman Warrior 』では中国人女性の話という印象しか持てないので、やはり『チャイナタウンの女武者』の方がアメリカのチャイナタウンに住む中国系アメリカ人のマキシンの自伝というテーマがはっきり表現されているような気がするので、私は好きです。
1.    Ma Rainey’s Black Bottomにおける模倣とアイデンティティの問題について

 1920年代後半、ジャズエイジ。アメリカ文化を信じられなくなったものたちは、それに代わるものとして文化的他者であるアフリカ系アメリカ人の文化をexoticでeroticなものとして興味を持ち、憧れるようになった。しかしなお、白人たちが彼らの白い顔をわざと黒塗りにして、イメージ通りのアフリカ系アメリカ人の滑稽で奇妙な姿でショーをするというミンストレルショーの伝統は根強く残っていた。この伝統は自分たちより下の存在を面白おかしく演じることで自分たちのアイデンティティを保っていた、主に白人労働者階級に人気があったという。そのエンターテイメントにアフリカ系アメリカ人も進出し始めると、彼ら自身は白人の持つイメージ通り、もしくはもっと上手に演じて見せることができた。その時に大きな問題となってくるのはアフリカ系アメリカ人のアイデンティティの所在である。

Ma Rainey’s Black Bottomではアフリカ系アメリカ人の音楽であるbluesに対する意識を通じて、アフリカ系アメリカ人でも様々なアイデンティティを持っていることが分かる。Ma RaineyはBluesを白人には決して理解することができない、人生を理解するやり方であると考えている。彼女にとって、bluesは教会でも歌われるような魂の歌で、哲学的で神聖な心の拠り所である。彼女は自身がアフリカ系アメリカ人であるというアイデンティティはbluesを通して確立されている。”White folks don’t understanding about the blues. They hear it come out, but they don’t know how it go there. They don’t understand that’s life’s way of talking. You don’t sing to feel better. You sing ‘cause that’s a way of understanding life”(82) (p82-83)

それと全く対照的なのがLeveeだ。彼にとってbluesは成功欲求の媒体としか考えられていない。Bluesという商品を白人プロデューサーに認めてもらうこと、認めてもらうことで白人と同じ社会的地位を得ようとしている。アフリカ系アメリカ人として自分の中に白人という他者を持っているため、彼のアイデンティティは支えられているため、非常に不安定で脆いものである。白人を中心に築かれ、統治されてきたアメリカ社会において、アフリカ系アメリカ人はつねに己の存在に劣等感を抱いていた。そんな劣等感から自分を解き放つために、必然的に「白人」になる道を選んだのがLeveeだ。彼は白人に憧れ、何としてでも白人世界で認められようと、白人を模倣することに価値を置く。彼は自分がアフリカ系アメリカ人としてのアイデンティティから逃避しようと試みるのだ。

アフリカ系アメリカ人は「アメリカ人であり、黒人である」というデュボイスのdouble consciousness、つまりアメリカ社会の人間であるというプライドと、白人社会からのプレッシャーの下に暮らすアフリカ系アメリカ人であるという2つのアイデンティティを持っている。そのアフリカ系アメリカ人の民族性を捨て、魂の音楽を自分が白人社会で認められるための手段として扱おうとするLevee。Toledoは “We done the same thing, Culter. There ain’t no difference. We done sold Africa for the price of tomatoes. We done sold ourselves to thw m in order to be like him. “(94) と怒りの言葉を吐く。Leveeは(悪魔に魂を売ってでも)白人になろうとしても、民族的に白人になることは不可能で、なったつもりでも所詮Toledoの言うところの”We’s imitation white man”にしかなれない、という事実にはなかなか気づくことができない。Leveeは小さい頃母親をレイプされ、ギャングに攻撃し自ら負傷、また父親が復讐しようとするが返り討ちにあって殺されるという悲惨な過去を持っている。その経験から”hatred for the white man, hatred for God, and hatred for himself.”と憎しみを抱え込み、信じられるのは自分のみ、けれど自分自身のことも憎むという複雑な精神構造を持っていたのだ。

LeveeはMa Raineyと対立し、解雇されることになってもなお、白人プロデューサーの「お前のレコードを作ってやる」という言葉に支えられて強気でいられた。しかし、「一曲につき5ドル払おう、それが精一杯だ」という言葉で、Leveeの夢が断ち切られ、未来へのドアが閉まってしまったとき、それが彼のアイデンティティ崩壊の時だった。そして、将来への道が途絶え、絶望にひれ伏していたときにあやまってLeveeの靴を踏んづけたToledoに不条理な怒りの矛先を向ける。「何故、俺の靴を踏んだんだ!!」と言ってわめき散らすLeveeは白人によって容易くもみくちゃにされてしまった自分の夢や野心を自分の靴にオーバーラップさせ、やり場のない怒りと悲しみを爆発させる。何度Toledoが謝っても許そうとせず、憎しみをかつて同じバンドで演奏し、成功を夢見た仲間を興奮のあまりに刺殺。このシーンではLeveeは、自分の能力だけを信じけれど同時に自分を憎むという、あまりにも弱い土台の上に他人の言葉を支えに成功の野心を胸に砂の城を築き上げてしまっていたことを感じさせられる。その言葉が幻想に過ぎなかったことを知ったとたんに砂でできた理性が崩れ去ってしまった。

Ma Rainey’s Black Bottomではアフリカ系アメリカ人はどんなに白人に憧れ、対抗し、似せようと努力しても、同じ土台に乗ることすらできず、せいぜい”imitation white man”とにしかかなれないということ。また、そのように白人を模倣する行為は、アフリカ系アメリカ人の二重意識に軋轢をもたらし、blackとしての誇りやアイデンティティを揺るがすものであるということが描かれていた。
私はBridesheadを読んで、美しく華麗な風景を舞台としながらも主人公Charles、Sebastianなど様々な登場人物の愛や宗教心への葛藤など非常に重苦しいイメージを受けた。特に信仰問題への苦悩は、特定の宗教を持たない私にとっては想像もできない未知の世界の苦しみと言える。プリントではこの作品に対しての様々な批評・見解が書かれているが、その中で私が気になった「愛」と「宗教」に関する批評について感想を述べることにする。
“CharlesとSebastianの間の”romantic friendship”は”Charles’s first love is a homosexual attachment to the most conspicuous man of year by reason of his beauty”(P226-L17)にもあるように同性愛と解釈される、熱烈なものである。そして次はSebastianの妹Juliaへの発展途上の愛とも言える未完成の異性愛である。この愛に対してCharlesとSebastian間で象徴的だった言葉、”alone together”が使われていて、とても意味深い。最終的には神への愛(畏敬)だ。(”his loves form a series of steps like those on a Napoleonic ladder, from Sebastian through Julia to God”,P226-L9)
作品を読んでCharlesもSebastianもそれぞれ「愛」に対する考え方を持っているように思われた。Charlesの愛に性別もジェンダーも大きな問題ではない。Sebastianは愛に終わりがあるということを知っている。Sebastianは自分自身を好きではなく、(”I wouldn’t love anyone with a character kike mine.” ”I absolutely detest myself.” )彼の宗教と自己嫌悪の苦しみは“escape from reality”, ”feel free”, ”go on runaway, as far as I can” という願望を植えつけた。彼のクマのぬいぐるみは幼いころのan adequate object of loveの象徴であるのが物悲しい。    
Marchmain夫人はSebastian、そしてJuliaを敬虔なカトリック信者にしようと画策するが、Sebastianは、それに苦しめられ、次第に酒に身を持ち崩していく。また彼の美しい妹Juliaの結婚生活も同じく、宗教のために混迷に陥る。これまでに人生に大きく影響を与え、苦しみをもたらす信教とは、ヨーロッパ世界でこれほどに重要な問題だということを本文を通して知った。
Brideshead revisitedは、人間の成長・求愛そして結婚という話から、病気および老化、別離(離婚)、誕生および死、まで宗教的かつ精神的なテーマにまで発展している。人間の一生において必ずテーマとなるこれらのものを描いたこの作品がイギリスだけでなく世界中の人々の共感と興味を呼び人気を博したのは当然のここともいえるのではないか。これらのテーマにかかわらず、重たすぎない印象を与えるのは登場人物がとても個性的で、魅力ある人物たちであるからに違いない。
「絶妙のユーモア小説」という触れ込みの通り面白い小説で、先の読めない展開にどんどん引きこまれてしまった。ポール・ペニーフェザーというちっぽけでささいな、吹けば飛んでしまいそうな名前の主人公、彼は名前の通り彼の周囲の個性的でアクの強い人々の力に影響されてコロコロと人生を転がっていってしまう。もしポールが自己を持っていて、他人の意見や行動に左右されず、自分の意思で行動できるような人間だったら、転落の人生を歩まなかったであろう。彼のユニークで想像もつかない展開に、気の毒にと苦笑しつつも、あまりにシャキッとしないポールに対していらだちを覚えた。
   私は英国は長い歴史と伝統を背景としたジェントルマンの国だというイメージを持っていた。特にオックスフォードなど、上流・貴族階級の名門の出ばかりが集まる、優雅で上品な世界だと思っていた。「ブライズヘッド再び」はチャールズとセバスチャンの豪華で華麗な世界、精神的苦悩の物語であった。同じ作家が書く、オックスフォードの生徒が主人公の物語という点では同じだが、「大転落」と「ブライズヘッド」では大きくテーマのジャンルが異なっているように思えた。「大転落」ではコミカルな話の端々に、様々な風刺がこめられている。一番の風刺は伝統あるイギリス社会がいかにも滑稽で、理不尽なものとして書かれていることだと思う。この本を読んで私のイギリスに対するイメージは多少変わった。強烈なのは、黒人に黒ん坊という差別用語を使い野蛮の象徴、中国人(シナ人)は義和団事件などから残虐の象徴で登場し、ウェールズ人にいたっては大いにバカにされている点である。ここには20世紀初頭のイギリス人の差別と偏見の目がうかがえる。この小説は名門オックスフォードを代表とする教育、プレンターガストにみえる宗教、ポールと生徒の親との恋愛など実に多くのテーマが取り上げられているが、作中ではどれも風刺の対象となっているように思う。
最終章のジレーヌス教授の人生論がとても心に残った。「人生は遊園地の大車輪のようなもので輪の中心に行くほど動きはゆっくりとなる。その中心に近づこうとよじ登って吹き飛ばされて、またよじ登って・・・でもそれを楽しいと思う人がたくさんいる。」確かに、人生という大車輪において初めから中心にいる人間は楽かもしれないが全く面白みが無い。かえって大車輪の端の方に生きる人間は飛ばされそうになってしがみつき、けれどいつかは必ず中心にいる人間よりもより高いところにたどり着けるという希望を持って、人生を面白く生きてゆけるのではないか。ポールは中心近くにいたが、わざわざ端までやってきてこの人生の大車輪を謳歌していた。初めはなんと意志のない男かと嘆いたが、featherのように軽い人間のほうがfall or declineの時に自分を支えられるのかも知れない。人生は”fall ,decline and rise” のサイクルを何度も繰り返す大車輪のようなものなのだ。この言葉はこれからの私たちにとって大いなる勇気となりうるだろう。
   

『緋文字』は登場人物の愚かさ・弱さ・内奥の葛藤や罪の意識の描写が大半の文章を占め、ピューリタン思想を時代背景にした宗教色の強い作品であり、かつ一文が長く曖昧な記述が多いことから、読むのに息が詰まり、かなりの苦労を要した。この作品には考察すべきテーマは多々あり、それぞれ興味深いものなのだが、その中でも取り上げたいのは発表で私が担当した部分に含まれる「パールが胸に緑色の草で母親を真似てAの文字をつける」Pearl took some eel-grass, and imitated, as best she could, on her own bosom, the decoration with which she was so familiar on her mother’s . A letter, -the letter A,-but freshly green, instead of scarlet!”(第15章P171-L6)という部分である。Aといえば悲劇の元凶となる姦通罪の刻印、ヘスターAdulteryの緋文字のAが真っ先に思い出される。ここでのパールの行動は単に子供の遊びというだけでなく、何らかの意味が隠されているのではないかと推測した。パールの緑色のAの文字を考察する前に、ヘスターの緋文字について改めて理解しておく必要がある。
  一章には監獄の黒・悪をイメージする言葉の羅列の中では極めて目立つ単語rosebush(4)が登場するが、これはもちろん緋色の文字を胸につける運命となったヘスターを象徴している。物語の舞台となるピューリタン的時代背景の下では、姦通罪を犯したヘスターはどす黒い陰惨な色で描かれてしかるべきである。気になるのは彼女の描写に使用されるのは姦通罪の緋文字や炎の赤色以外に、fine, elaborate, fantastic, gold, gorgeous等、鮮やかな輝かしい単語が目立つことだ。ホーソンはヘスターを悪や罪の存在としてのみ描いているわけではなく、むしろ神聖な印象を与えているのではないだろうか。これは”that mystery of a woman’s soul, so sacred even its pollution”(P65-L33),” What we did had a consecration of its own”(P187-L33)という文章からも明らかである。そもそも紅の薔薇とは、それが殉教を象徴することから、キリストの磔刑の場面に描かれ、受難の象徴を表すといわれている。一方で天使、聖人、祝福された者が頭上に載せる薔薇の花冠は天国の喜びを示唆する。そして緋という色自体は辞書を引くと「罪悪感を象徴する色であると同時に地位・身分の高さを象徴する色」とある。ヘスターは姦通女であり緋文字を胸につけて生きねばならないという試練を与えられたが、同時に聖母マリアの役割を担い、救いを象徴する存在でもあるのだ。姦通女と聖母マリア、全く相反する2つの象徴を兼ね備えたのがヘスターなのである。
一方、へスターの子パールは姦通によって生まれた子で、product of sin(P90-L11)罪を象徴する存在、または命を吹き込まれた緋文字として存在している。しかしヘスターに作品全体を通じて不可思議な子供、常に罪を意識させる罪の子でありながら、羽の生えた妖精(=天使)という描写もされている。彼女の神秘性は数回にわたって登場する森のシーンで際立つ。キリスト教の思想や概念にとらわれた俗世界とそれが全く介入しない自然、この環境の違いはヘスターとパールの精神世界の違いを生み出しているように思われる。森の中でヘスターが光に手を差し伸べると日光はヘスターに純粋な神聖を与えるのを拒否するかのようにパッと消えてしまう。厳しいピューリタン思想の下、その働きざまと慈善的奉仕によって次第に世間に受け入れられて来たように思えるヘスターも、太陽や光などの自然には受け入れられない。一方パールは森の中で生き生きと太陽の光を体中にまとって駆け回る。先ほど引用した「アマモで胸にAという文字を作る」という文章で緑色のAは、羽の生えた天使AngelのAであると同時にパールの自然に対する親和力のAbilityなのではないかと思う。そしてその緑色のAの文字はパールの胸に生まれながらに刻印されていると思えてならない。
19章で緋文字のAを捨て去ったヘスターを見て、パールが癇癪を起こした。パールはヘスターに罪の意識を促す緋文字を生涯付け続けさせねばならないという使命を担っている。この使命を果たすため彼女の胸にもAの文字が付いていると考えらのだ。お互いに共鳴して成り立つ存在であるため、どちらかのAが失われそうな時、連鎖的にもうひとつのAはそれを拒否する。ヘスターはピューリタン的俗世界で姦通を意味する緋文字のA、パールはキリスト教世界とは関わりの無い自然界の緑のA、いずれにせよ二人は同じAという文字を胸に付けて生涯を過ごさねばならないという点で、それぞれ意味と役割は違うが同じ運命を背負っていると言えるだろう。