哲学レポ;お金の意義
2005年1月13日 教育1.はじめに
我々が生活するこの世界でお金の存在は計り知れないほど大きい。社会・国・地球上あらゆるところでお金が使用され、流通している。財布を開くと、たいていモノやサービスと交換できるお金が入っている。お金は常に存在し、そこにあるのが当たり前すぎてあまりその意味を考えたことは無かった。今回授業でお金について取り上げられてことは、それを考え直す良い機会だったと思う。お金の意味を考える前に、改めてお金の発生の歴史、そして実社会でのお金の機能を調べなおし、それから自分にとってお金はどういう意味を持っているか考えてみたいと思う。
2.お金の歴史
お金が登場する以前はモノとモノとの交換によって物質は流通していた。物々交換はモノを欲しがる人同士が了承しあわなければ成立しなかった。そこで登場したのが貨幣だが、貝や石・金貨などタイプはさまざまだった。しかし国によってお金の形態は様々、価値も一定しておらず他国との商業では非常に不便だった。そこで、品質の一定した鋳造貨幣が紀元前7世紀小アジアのリディアで作られた。国がしっかりとし、国と国との交流や貿易が開始され経済が成り立つ鋳造貨幣の登場は、人類の偉大な発明だったといえよう。
世界初の紙幣は中国の宋の時代に鉄銭の預かり証として発行され使用されるようになった交子である。紙幣は金と交換できることを保障して価値が決められていたが、現在ではこの金本位制は崩壊しており、日本の円は日本銀行がその価値を保障している。
3.お金の機能
お金・貨幣は資本主義経済を成立させるために本質的な役割を果たすモノである。貨幣はモノの価値を客観的に比較する価値の尺度として、共通価値を有することで成り立つ交換の媒体として、また長期的に財産を保存・蓄積を可能とするモノである。このように主として3つの機能を持つ貨幣だが、貨幣自体のモノとしての価値は少ない。100円玉自体に100円の価値があるわけではないし、紙幣はただの印刷物である。その貨幣に額面どおりの価値を与えているのは、人々の信用という共通認識である。つまり貨幣の価値は貨幣として用いられるモノの価値とは本質的に分離されているものだ。貨幣とは我々が紙切れに与える価値の共通認識があって初めて貨幣は流通するモノである。
4.私とお金
私の場合、お金に対する価値の意識は成長するに従って変化してきたように思う。小さい時は月に数百円のおこづかいをもらって、それで十分やっていけた。お昼ごはんは学校で食べられるし、おやつは家に置いてある。遊ぶのは近くの公園や友達の家ばかりでお金はほとんど必要なかったからだ。時々数百円で自分の好きな駄菓子を買う・・・それがささやかな幸せだったことを思い出す。そして自分がお金を使っているという意識に大人への仲間入りの感覚を持ったものだ。あのころは500円という金額がどれだけ大きく感じたであろう。
成長するにつれ、友達つきあいや洋服にかかる費用、外出費などが増えていき、使う金額も増えていったがお金に対する意識が変わったのはやはりアルバイトを始めてからであろう。それまでは親や親戚に何もしないでお金をもらっていたが、アルバイトによってお金を稼ぐとはどういうことか、その大変さを知った。お金とは自分の労働のご褒美だ。同時に自分の頑張りの証でもあるのだ。そう考えると無駄使いはできないので、お金を使うのにも慎重になった。自分が本当に欲しいものを買うようになった、ともいえる。そうして商品を買う(商品と交換する)という行為に本当に大きな喜びと幸せを感じられるようになったのだ。
私にとってお金とは人々に主として喜びと幸せをもたらすモノである。誰かの労働でそれに見合った賃金をもらい、お金を商品やサービスに交換する。その時に誰もが喜びを手にするだろう。その貨幣に額面どおりの価値を与えているのは人々の信用という共通認識である、と先ほど書いたが、貨幣という媒体を通して得られる商品に対する思いや喜びの大きさは、その人のお金への思いに付加価値を与えるであろう。私は自分が汗水を流して一生懸命働いて稼いだお金に数字以上の喜びと誇りを感じるし、そのお金を商品に交換するということは貴重なことに思える。お金の使い方をあやまるとひどい目に合うこともあるが、お金という媒体があってこそモノとモノがつながり、それを使用する全世界の人々ともつながりあえる、現代社会に生活するに欠かせないものとして、また自分の労働力の結晶として、お金は素晴らしい発明だったと心から思い、この媒体が全ての人々に喜びと幸せをもたらすモノであると信じてやまない。
我々が生活するこの世界でお金の存在は計り知れないほど大きい。社会・国・地球上あらゆるところでお金が使用され、流通している。財布を開くと、たいていモノやサービスと交換できるお金が入っている。お金は常に存在し、そこにあるのが当たり前すぎてあまりその意味を考えたことは無かった。今回授業でお金について取り上げられてことは、それを考え直す良い機会だったと思う。お金の意味を考える前に、改めてお金の発生の歴史、そして実社会でのお金の機能を調べなおし、それから自分にとってお金はどういう意味を持っているか考えてみたいと思う。
2.お金の歴史
お金が登場する以前はモノとモノとの交換によって物質は流通していた。物々交換はモノを欲しがる人同士が了承しあわなければ成立しなかった。そこで登場したのが貨幣だが、貝や石・金貨などタイプはさまざまだった。しかし国によってお金の形態は様々、価値も一定しておらず他国との商業では非常に不便だった。そこで、品質の一定した鋳造貨幣が紀元前7世紀小アジアのリディアで作られた。国がしっかりとし、国と国との交流や貿易が開始され経済が成り立つ鋳造貨幣の登場は、人類の偉大な発明だったといえよう。
世界初の紙幣は中国の宋の時代に鉄銭の預かり証として発行され使用されるようになった交子である。紙幣は金と交換できることを保障して価値が決められていたが、現在ではこの金本位制は崩壊しており、日本の円は日本銀行がその価値を保障している。
3.お金の機能
お金・貨幣は資本主義経済を成立させるために本質的な役割を果たすモノである。貨幣はモノの価値を客観的に比較する価値の尺度として、共通価値を有することで成り立つ交換の媒体として、また長期的に財産を保存・蓄積を可能とするモノである。このように主として3つの機能を持つ貨幣だが、貨幣自体のモノとしての価値は少ない。100円玉自体に100円の価値があるわけではないし、紙幣はただの印刷物である。その貨幣に額面どおりの価値を与えているのは、人々の信用という共通認識である。つまり貨幣の価値は貨幣として用いられるモノの価値とは本質的に分離されているものだ。貨幣とは我々が紙切れに与える価値の共通認識があって初めて貨幣は流通するモノである。
4.私とお金
私の場合、お金に対する価値の意識は成長するに従って変化してきたように思う。小さい時は月に数百円のおこづかいをもらって、それで十分やっていけた。お昼ごはんは学校で食べられるし、おやつは家に置いてある。遊ぶのは近くの公園や友達の家ばかりでお金はほとんど必要なかったからだ。時々数百円で自分の好きな駄菓子を買う・・・それがささやかな幸せだったことを思い出す。そして自分がお金を使っているという意識に大人への仲間入りの感覚を持ったものだ。あのころは500円という金額がどれだけ大きく感じたであろう。
成長するにつれ、友達つきあいや洋服にかかる費用、外出費などが増えていき、使う金額も増えていったがお金に対する意識が変わったのはやはりアルバイトを始めてからであろう。それまでは親や親戚に何もしないでお金をもらっていたが、アルバイトによってお金を稼ぐとはどういうことか、その大変さを知った。お金とは自分の労働のご褒美だ。同時に自分の頑張りの証でもあるのだ。そう考えると無駄使いはできないので、お金を使うのにも慎重になった。自分が本当に欲しいものを買うようになった、ともいえる。そうして商品を買う(商品と交換する)という行為に本当に大きな喜びと幸せを感じられるようになったのだ。
私にとってお金とは人々に主として喜びと幸せをもたらすモノである。誰かの労働でそれに見合った賃金をもらい、お金を商品やサービスに交換する。その時に誰もが喜びを手にするだろう。その貨幣に額面どおりの価値を与えているのは人々の信用という共通認識である、と先ほど書いたが、貨幣という媒体を通して得られる商品に対する思いや喜びの大きさは、その人のお金への思いに付加価値を与えるであろう。私は自分が汗水を流して一生懸命働いて稼いだお金に数字以上の喜びと誇りを感じるし、そのお金を商品に交換するということは貴重なことに思える。お金の使い方をあやまるとひどい目に合うこともあるが、お金という媒体があってこそモノとモノがつながり、それを使用する全世界の人々ともつながりあえる、現代社会に生活するに欠かせないものとして、また自分の労働力の結晶として、お金は素晴らしい発明だったと心から思い、この媒体が全ての人々に喜びと幸せをもたらすモノであると信じてやまない。
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