「あなたは、自信がありますか?この問いに、いったいどれくらいの人がyesと答えられるだろう?」(課題図書・裏面)いつまでもアメリカのいいなりになっている政府・長引く不況に相次ぐ倒産、増加する凶悪犯罪とその低年齢化、現代の日本はこのような不安定な時代だ。そしてどれだけ頑張っても努力しても、時に報われないことがあるということを知ってしまった人間に、「自信」という揺るぎないものを持つことが難しくなっているのは当然である。現代は元気が無く自信のない大人があまりにも多い。
教師の自信はどうだろう。先日、**「生徒指導に自信、6%」という記事を目にした。それは、生活指導を始め教科指導・教科の知識・学級作り・部活動など5項目のついての自信についてアンケートをとったところ、生活指導では「自信がある」と言い切った先生が日本ではわずか6%しかいないというものだった。私はある程度予想はできたものの、あまりの数字の低さに驚きを隠しきれなかった。このアンケートは日本のみならず英国と中国でも行われ、同じ質問に対し、英国では47%、中国では73%もが自信があると答えたという調査結果が載っている。日本と中国でこれほどまでに教育指導に対する自信の差が出たのは何故だろうか。このような疑問を持ったとき、両国の教育に対する社会的観念を考えると自ずと理由が見えてきた。

教師のとらえ方の差
中国は12億人という世界最多の人口を抱えるが故に、多くの子供が親元を離れて生活している。中国ではよりよい生活を送るために、子供のころから大いに勉強し、良い大学・良い会社に入り立身出世をすることが大事であるという根強い考え方がある。よって中国は子供にものを教える教師という仕事に大きな期待を寄せると共に権威性をも与えていることが想像できる。一方、現在の日本の社会はどうだろう。いじめ・不登校・学力偏重・さらに学級崩壊などさまざまな学校問題が噴出する教育現場での教師の苦悩は計り知れない。同時に父母の期待・社会の批判的な目を背負っている日本の教師。昔は教師と親の価値観が一致していたようだ。「言うことを聞かない時は、殴っても蹴ってもいい」と言われ、教師は生徒の親から絶対的な権威性を与えられていた。現在はそんな親は殆どおらず、子供と価値観が一致していて、我が子の弁護ばかりしている親が目立つ。子供が問題を起こしても、「うちの子が悪いのではない。相手が悪いのだ」と言い張り、絶対に自分の子の非を認めようとしない親もいる。地域も問題教師の報道の連続に教師を批判的に観察している。地域や親の協力体制(バックアップ)、教師に対する価値観の違いが教師の自信の差を生み出しているように思う。

教師の教育の自由と権威
教師とは***「国家や社会の教育目的の達成のために、管理される存在である。」そして、教師の任務は「親の信託に応え、子どもの学習権を充足させる教育活動を行うこと」である。そのために、学校には子どもの学習権を保障するという枠内では「教育活動の自由」が認められるべきだ。また、「教育活動の自由」を行使する教師は、教育に専門的力量、そして人間的な資質が求められている。現在、教師という仕事は聖職ではないし、素晴らしい教師ばかりではないのは事実だ。しかし親は完璧な教師は多くない、という認識を持った上でできるだけ教師をバックアップし、教師の権威性と自信を確保するという寛容な態度が必要だと思う。その中から教師・親、教師・生徒の信頼関係などの信頼関係が築かれていくのではないか。私を怒った教師は、親との関係は良くなかった。単に不機嫌だっただけなのかもしれないが、彼はきっと教育に対する、生徒に対する自信の欠如が根底にあったのではないだろうか。だから、当時自信に溢れていた私に対して怒りを覚えた、今はそのような考え方を持っている。

自信力とは
「疾風怒濤の時代」という言葉は青年期というより、元気が無い・自信が無い現代社会を的確に表した言葉だ。そしてそんな周りの大人や教師を見ながら、子供が育っているということはまぎれもない事実だ。「自信」とは自らの持っている能力・価値などを信じる気持ち、「力」とは自ら動き、他のものを動かす作用をするものである。つまり、大人の自信力回復なくして、子供の自信力は育たない。未来を担う子供のためにも、今こそ日本の自信力を回復することが重要だ。

<参考文献> *「青年期の心」(福島章執筆)
** 朝日新聞9・22一面
***『教育と人権』(堀尾輝久執筆)

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