これからの日本の英語教育はどうあるべきか
2005年1月10日 教育 日本人の英語力は他の国に比べて低いということをよく耳にする。義務教育で中学校の3年間、それに高校、大学と合計8年間近く英語を勉強してきているにもかかわらず、英語をマスターすることはおろか、満足に使いこなすことができない自分を情けなく思う。その理由を考えると、日本の英語教育に問題があるからではないかという考えは否定できない。
中教審の指導要領では国際的な人間を育てることを大きな目標の一つに上げている。国際的な人間とはつまり、国際的な視野を持ち、国際的な感覚を身につけること、そしてもちろん英語を自在に操ることができる人間と解釈している。しかし、この一大目標に沿った英語指導は行われているのだろうか疑問である。中学の英語の授業で主として重きが置かれるのは英語の<読み・書き>であったように思う。受験英語と呼ばれるような詰め込み式の英語学習では英語という言語を習得するのが困難であるということは、今も過去も多くの日本人が実感してきたことだ。英語とは学問ではあるけれども、あくまで人と人とのコミュニケーションで使う言語であるのだから、もっともっと<聞く・話す>というスピーキング・リスニング中心の英語学習に転換していかねばならないと思う。
そして、国際的な感覚を身につけさせる指導をどれだけの英語教師ができるのだろうか。そもそも世界に通用する国際感覚を持ち合わせた英語教師はさほど多くないのではないかと思う。英語を習ったとしても使う機会が無くては意味がない。しかし日本で本物の英語に触れる機会は数少ないのだ。中学で外国人の先生が英語を教えてくれる時間というのがあった。こういったnativeの英語を生で教えてくれる機会をもっと増やすべきだと思う。そして英語の教師は指導能力以外にも一定レベルの国際感覚を身につける機会(英語科教諭又は志す人たちの海外留学を必修にする等)を設けるべきだと思う。
小学校英語教諭の育成、中学・高校英語教師のレベルの底上げ、縦の軸での教師同士の連携、の重要性を認識した上で、理想的な英語教育の形として、早期に英語を小学校の科目に入れることの実現、そして授業では文法等を中心に教える日本人の教師とコミュニケーションを中心とした外国人の先生の二人で授業を組み立てて行くということが横の軸での連携なのではないかと思っている。縦の軸・横の軸の英語教育を確固たるものにし、安定した基盤の上で指導を行うことがこれからの英語教育にとって必要であると思う。
中教審の指導要領では国際的な人間を育てることを大きな目標の一つに上げている。国際的な人間とはつまり、国際的な視野を持ち、国際的な感覚を身につけること、そしてもちろん英語を自在に操ることができる人間と解釈している。しかし、この一大目標に沿った英語指導は行われているのだろうか疑問である。中学の英語の授業で主として重きが置かれるのは英語の<読み・書き>であったように思う。受験英語と呼ばれるような詰め込み式の英語学習では英語という言語を習得するのが困難であるということは、今も過去も多くの日本人が実感してきたことだ。英語とは学問ではあるけれども、あくまで人と人とのコミュニケーションで使う言語であるのだから、もっともっと<聞く・話す>というスピーキング・リスニング中心の英語学習に転換していかねばならないと思う。
そして、国際的な感覚を身につけさせる指導をどれだけの英語教師ができるのだろうか。そもそも世界に通用する国際感覚を持ち合わせた英語教師はさほど多くないのではないかと思う。英語を習ったとしても使う機会が無くては意味がない。しかし日本で本物の英語に触れる機会は数少ないのだ。中学で外国人の先生が英語を教えてくれる時間というのがあった。こういったnativeの英語を生で教えてくれる機会をもっと増やすべきだと思う。そして英語の教師は指導能力以外にも一定レベルの国際感覚を身につける機会(英語科教諭又は志す人たちの海外留学を必修にする等)を設けるべきだと思う。
小学校英語教諭の育成、中学・高校英語教師のレベルの底上げ、縦の軸での教師同士の連携、の重要性を認識した上で、理想的な英語教育の形として、早期に英語を小学校の科目に入れることの実現、そして授業では文法等を中心に教える日本人の教師とコミュニケーションを中心とした外国人の先生の二人で授業を組み立てて行くということが横の軸での連携なのではないかと思っている。縦の軸・横の軸の英語教育を確固たるものにし、安定した基盤の上で指導を行うことがこれからの英語教育にとって必要であると思う。
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