1.    Ma Rainey’s Black Bottomにおける模倣とアイデンティティの問題について

 1920年代後半、ジャズエイジ。アメリカ文化を信じられなくなったものたちは、それに代わるものとして文化的他者であるアフリカ系アメリカ人の文化をexoticでeroticなものとして興味を持ち、憧れるようになった。しかしなお、白人たちが彼らの白い顔をわざと黒塗りにして、イメージ通りのアフリカ系アメリカ人の滑稽で奇妙な姿でショーをするというミンストレルショーの伝統は根強く残っていた。この伝統は自分たちより下の存在を面白おかしく演じることで自分たちのアイデンティティを保っていた、主に白人労働者階級に人気があったという。そのエンターテイメントにアフリカ系アメリカ人も進出し始めると、彼ら自身は白人の持つイメージ通り、もしくはもっと上手に演じて見せることができた。その時に大きな問題となってくるのはアフリカ系アメリカ人のアイデンティティの所在である。

Ma Rainey’s Black Bottomではアフリカ系アメリカ人の音楽であるbluesに対する意識を通じて、アフリカ系アメリカ人でも様々なアイデンティティを持っていることが分かる。Ma RaineyはBluesを白人には決して理解することができない、人生を理解するやり方であると考えている。彼女にとって、bluesは教会でも歌われるような魂の歌で、哲学的で神聖な心の拠り所である。彼女は自身がアフリカ系アメリカ人であるというアイデンティティはbluesを通して確立されている。”White folks don’t understanding about the blues. They hear it come out, but they don’t know how it go there. They don’t understand that’s life’s way of talking. You don’t sing to feel better. You sing ‘cause that’s a way of understanding life”(82) (p82-83)

それと全く対照的なのがLeveeだ。彼にとってbluesは成功欲求の媒体としか考えられていない。Bluesという商品を白人プロデューサーに認めてもらうこと、認めてもらうことで白人と同じ社会的地位を得ようとしている。アフリカ系アメリカ人として自分の中に白人という他者を持っているため、彼のアイデンティティは支えられているため、非常に不安定で脆いものである。白人を中心に築かれ、統治されてきたアメリカ社会において、アフリカ系アメリカ人はつねに己の存在に劣等感を抱いていた。そんな劣等感から自分を解き放つために、必然的に「白人」になる道を選んだのがLeveeだ。彼は白人に憧れ、何としてでも白人世界で認められようと、白人を模倣することに価値を置く。彼は自分がアフリカ系アメリカ人としてのアイデンティティから逃避しようと試みるのだ。

アフリカ系アメリカ人は「アメリカ人であり、黒人である」というデュボイスのdouble consciousness、つまりアメリカ社会の人間であるというプライドと、白人社会からのプレッシャーの下に暮らすアフリカ系アメリカ人であるという2つのアイデンティティを持っている。そのアフリカ系アメリカ人の民族性を捨て、魂の音楽を自分が白人社会で認められるための手段として扱おうとするLevee。Toledoは “We done the same thing, Culter. There ain’t no difference. We done sold Africa for the price of tomatoes. We done sold ourselves to thw m in order to be like him. “(94) と怒りの言葉を吐く。Leveeは(悪魔に魂を売ってでも)白人になろうとしても、民族的に白人になることは不可能で、なったつもりでも所詮Toledoの言うところの”We’s imitation white man”にしかなれない、という事実にはなかなか気づくことができない。Leveeは小さい頃母親をレイプされ、ギャングに攻撃し自ら負傷、また父親が復讐しようとするが返り討ちにあって殺されるという悲惨な過去を持っている。その経験から”hatred for the white man, hatred for God, and hatred for himself.”と憎しみを抱え込み、信じられるのは自分のみ、けれど自分自身のことも憎むという複雑な精神構造を持っていたのだ。

LeveeはMa Raineyと対立し、解雇されることになってもなお、白人プロデューサーの「お前のレコードを作ってやる」という言葉に支えられて強気でいられた。しかし、「一曲につき5ドル払おう、それが精一杯だ」という言葉で、Leveeの夢が断ち切られ、未来へのドアが閉まってしまったとき、それが彼のアイデンティティ崩壊の時だった。そして、将来への道が途絶え、絶望にひれ伏していたときにあやまってLeveeの靴を踏んづけたToledoに不条理な怒りの矛先を向ける。「何故、俺の靴を踏んだんだ!!」と言ってわめき散らすLeveeは白人によって容易くもみくちゃにされてしまった自分の夢や野心を自分の靴にオーバーラップさせ、やり場のない怒りと悲しみを爆発させる。何度Toledoが謝っても許そうとせず、憎しみをかつて同じバンドで演奏し、成功を夢見た仲間を興奮のあまりに刺殺。このシーンではLeveeは、自分の能力だけを信じけれど同時に自分を憎むという、あまりにも弱い土台の上に他人の言葉を支えに成功の野心を胸に砂の城を築き上げてしまっていたことを感じさせられる。その言葉が幻想に過ぎなかったことを知ったとたんに砂でできた理性が崩れ去ってしまった。

Ma Rainey’s Black Bottomではアフリカ系アメリカ人はどんなに白人に憧れ、対抗し、似せようと努力しても、同じ土台に乗ることすらできず、せいぜい”imitation white man”とにしかかなれないということ。また、そのように白人を模倣する行為は、アフリカ系アメリカ人の二重意識に軋轢をもたらし、blackとしての誇りやアイデンティティを揺るがすものであるということが描かれていた。

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